想定外すぎる人生。 世界に広がる看護師という仕事について。

おすすめトピックス

私が海外で働こうと思ったきっかけとは?

私が海外で働こうと思ったのは、看護師として働いていくなかで死生観について考えるようになったことがきっかけ。

呼吸器病棟や循環器病棟で約10年勤務し、数多くの患者さんの死に直面しました。延命治療の選択、ご家族との過ごし方、最期の迎え方……等々、さまざまな症例の看護に携わってきました。ご家族の希望で延命処置を選択しておきながら、面会にも来ず、最期も看取られることなく亡くなっていく方々を見て、まるで「孤独死」のような印象を受けることもありました。

そんな私は、日本ほど医療技術が発展していない海外の国での人生の最期の迎え方や文化が気になりはじめたのです。たまたまテレビで途上国の番組を目にする機会があり、途上国の医療活動を行っている方々が執筆した本を読むようになりました。とくに感銘を受けたのは、

  • 山本敏晴『世界で一番いのちの短い国 シエラレオネの国境なき医師団』
  • 中村哲『アフガニスタンの診療所から』
  • 緒方貞子『女性と復興支援――アフガニスタンの現場から』
  • 波平恵美子『文化人類学』
  • 中井俊巳『マザー・テレサ 愛の花束』

……といった本たち。

こうした書籍に感化されていたタイミングで、いつも通勤で利用していた地下鉄の青年海外協力隊の広告を目にし、いてもたってもいられず説明会へ参加。JICA(国際協力機構)の方のサポートもあり、応募に至りました。

青年海外協力隊とは、JICAが実施する海外ボランティア派遣制度です。その活動内容は、自らの知識や技術を活かして、海外で開発途上国の人々とともに地域の社会や経済の発展に積極的に協力、貢献するというもの。

私が応募した当時は、募集年齢が20~39歳でしたが、現在は20~45歳にと対象が広がっています。春と秋の年に2回、一次の書類選考、二次の面接と健康診断が行われ、合格者は隊員候補生として約2カ月間の「訓練所」での訓練を経て、途上国の要請に基づき派遣されます。募集分野には農林水産・教育・保健衛生などがあり、活動は9部門、約190以上の職種があります。

ちなみに「訓練所」は、長野県の駒ヶ根市と福島県の二本松市にあります。私は、長野の訓練所に入りました。トイレ、洗面、お風呂、食堂は共同です。部屋は1人1人に割り当てられており、ベットと学習机、本棚があります。

・朝6時に起床、ラジオ体操、朝礼
・朝食
・9~15時まで語学勉強
・12~13時昼食
・15~17時 JICAや途上国についてなどさまざまな講義
・18時夕食
・それ以降は個人的な講義活動、入浴、個人学習
・22時就寝

というようなスケジュールでした。

一次の書類選考時に、派遣を希望する国を3つまで記載することができます。私は本当はアフリカ圏の国へ行きたかったのですが、それぞれの国が希望する要請内容と自分の経験がマッチした国がウズベキスタンとベトナムだったので、ウズベキスタンを第一希望にして提出しました。そして私は、中央アジアにあるウズベキスタン共和国に看護師として派遣されることになったのです。

とはいえ、ウズベキスタンについては何も知らなかったので、派遣が決まってから大急ぎで本を読んで調べました。アフリカへはまた改めて別の機会に挑戦しようと思っていました。

そして、いざウズベキスタンへ!

ウズベキスタン共和国は、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の国になります。北にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東にタジキスタン、キルギスタンの5カ国と隣接しています。世界に2ヶ国しかない「二重内陸国」(国境を最低2回超えないと海に達しない)の1ヶ国でもあります。かつてはシルクロード貿易の中継地として最も栄えた場所ともいわれています。

ウズベキスタンの国土面積は、日本の約1.2倍。多民族国家であり、約130もの民族が住んでいます。ウズベキスタンの人々の宗教は、ほとんどがイスラム教です。しかし、他のイスラム圏の国と比較すると厳格ではなく、お祈りをする人もいればしない人もいます。アルコール類の販売も普通にされています。

気候は、夏は50度を超える暑さ、冬は雪が少ないですが寒くてマイナスになります。昼夜の寒暖差が激しく、乾燥していて、降水量が少ないのが特徴です。

ウズベキスタンの首都タシケントには、ナヴォイ劇場という劇場があり、これは第二次世界大戦後に抑留された旧日本人兵に強制労働で建てさせた劇場だそうです。このナヴォイ劇場は、1966年のタシケント地震で無傷であったため、ウズベキスタンの人々は日本人の技術を今でもとても尊敬しています。

ちなみに、〈~スタン〉と聞くと、「危険な国なのでは?」と思う人も多いでしょう。日本の外務省が出している世界の危険レベルでウズベキスタンを見ると、アフガニスタン、キルギスタン、タジキスタンとの国境沿いは危険地域とされています。しかし、それ以外の地域は比較的安全であり、決して治安は悪くありません。ウズベキスタンは中央アジアで最も早く地下鉄が整備された国であり、カザフスタンとともに中央アジアのビジネスの中心国になっています。

そして古くからシルクロードの中継地点として栄えてきたため、歴史的な場所も多く中央アジアでは人気の観光地です。物価も日本と比較すると安く、新鮮な野菜や果物が豊富。パンが主食ですが、お米を使ったパロフという伝統料理や麺類もあります。お肉を使った料理が中心ですが、魚料理もあり、比較的日本人の口に合うお料理が多いのが特徴です。

ウズベキスタンの公用語は、ウズベク語とロシア語です。ウズベキスタンの約80%は、ウズベク人が占めています。そのウズベク人の母語は、ウズベク語です。私の配属先の病院は、首都タシケントの旧市街に位置しており、ウズベク人が比較的多く住んでいる地域でした。

ウズベク語の本は少なく、マイナー言語は一見ハードルが高い印象を受けるでしょう。しかし、ウズベク語は日本語と同様、文法の形式が主語+目的語など+動詞の形です。ウズベク語は日本人にとっては、他の言語と比較するととても習得しやすい言語といえます。ですが、やはり活動が始まって半年間は、医療器具名や病名、処置に関する名称も全て1から習得、1つ1つ同僚に聞き、ウズベク語の名称を覚えることから始まりました。最初の半年間は、できるだけ日常生活でも仕事でもウズベク人と関わり、ウズベク語しか聞かない環境にしました。そうすることで、半年経過した頃から、耳が慣れ、自然と覚えるペースや話すペースが早くなりました。

ウズベキスタンの人びととの触れ合い

ウズベキスタンは、親日家が多く、おもてなしをするのが大好き。日本人と知ると知り合って間もなくても「時間があるなら、家に招待しますよ!」と歓迎してくれます。

とりわけウズベキスタンの結婚式は盛大で、日本のように招待制ではありません。周辺に住んでいる人や親戚など多くの人が参加するため、少なくとも300人もの人が集まります。誕生日会も家族や親友、親戚などが30~50人ほど集まります。私も数多くの結婚式や誕生日会に参加したり、ウズベク人の家庭へ遊びに行ったりしました。

ウズベキスタンでの看護師としての日々

私は首都タシケントの旧市街に位置する病床数500床ほどの病院のICUに配属になりました。ICUの病床数は17床で、心血管系疾患や悪性腫瘍、熱傷患者などが毎日搬送されてきました。

同僚の看護師とともに働きながら、

・医療スタッフのレベルアップを目指すこと
・看護ケアの概念を定着させること

などが活動の目的とされていました。

ウズベキスタンの医療事情は、それほど悪くはありません。日本をはじめとするさまざまな国から医療器材の支援を受けており、ある程度の医療器材も環境も整っています。

看護師の業務は、主に医師の指示受けと点滴の施行が中心です。日本との大きな違いは、保清や体位交換など患者さんの身の回りの世話という看護ケアが少ないということです。看護ケア1つ1つの必要性は理解していて知識はあっても、積極的に実施には至らないという状況でした。

また、人工呼吸器など医療器材の使用方法も特定の医師しか把握していず、看護師はほとんど知識がない状態でした。医師も看護師も地位が低く、給料が比較的安いためモチベーションにつながらないことなどが理由の1つとして考えられます。

それでも少しずつでも看護ケアの重要性を理解してもらうために、同僚と働く以外にも看護部長とセミナーを開催するなど活動の幅を広げました。

ウズベキスタンで活動することでの看護観の変化

ICUで活動した2年間でもさまざまな患者さんに遭遇しました。患者さんの死に直面したこともありました。そんな中、ウズベキスタンの活動で感じた日本との大きな違いが1つありました。

それは、出来る限り最善の医療処置を施しても回復の見込みがない状態に陥った患者さんは、家族へ状況を説明し、患者さんを自宅へ連れて帰るということでした。

ウズベキスタンの多くの方は、愛する家族のもとで最期を迎えるということです。これは、私が日本で看護師として働いていた中で考えるようになった死生観に触れる一面でした。

死生観に正解はありません。

ただ、ウズベキスタンの多くの方々は亡くなる時も大切な家族に囲まれながら亡くなるということがとても幸せな亡くなり方なのではと感じました。私もいつまでも患者さんのために患者さんが一番信頼している家族と一緒に必要な看護ができる看護師でいたいと思うようになりました。

日本で看護師として働いていた時の言葉では言い表せないモヤモヤを、ウズベキスタンで活動することで少しスッキリすることができたのです。

ある日、ICUでの勤務中、一人のウズベク人が重度の熱傷で運ばれてきた……

2年間の活動を終え、日本に帰国後は進学して、保健師・助産師の資格を取得しました。助産師として3年強勤務後、再度仕事で海外へと思っていた矢先からの展開についてお話させていただきます。

ICUで活動していた際に、1人の男性ウズベク人が重度の熱傷患者で運ばれてきました。

彼は、カフェの建設に泊まり込みで携わっていました。早朝4時頃、泊まり込みで建設していたカフェが火事になり、熱傷65%で搬送されてきました。彼以外にも多くの建築士がおり、5名ほど亡くなっています。彼は生存した中で一番重症でした。

ウズベキスタンでは、退院後の支援サービスが日本のように整っておらず、継続したリハビリが必要な患者さんも個々で医師を見つけなければなりませんでした。そんなシステムに疑問と不安を抱き、退院後もそのウズベク人の訪問看護の支援を行っていました。

そして、その患者さんが現在の夫です。

当時は、恋愛感情はまったくなく、ただ病状が心配で関わっていました。ただ2年間の活動が終わって帰国するときには、病状が回復することを祈り、「いつかまた会えたらいいな」と思っていました。

そんな彼が5年ぶりにFacebookで私を見つけてくれたことがきっかけで再会。そして、当時なぜそんなに病状が心配だったのか結論が分かった気がしました。「結婚するならこの人だ!」と人生で初めて思えました。

憧れの助産師としての国際協力の道と結婚して移住の道。とても悩みましたが、国際協力の道をあきらめ、結婚しウズベキスタンへ移住の道を選択したのです。

そして想定外すぎる人生。

私が嫁いだホラズム州は、ウズベキスタンの西部に位置する州になります。夫の家は、トルクメニスタンとの国境沿いにある村。ホラズム州には、中央アジアで一番最初に登録された世界遺産である「イチャン・カラ」があります。現在は、ご縁あって、世界遺産である「イチャン・カラ」で日本語ガイドの仕事をしています。

仕事にもよりますが、ウズベキスタンでは残業がほぼなく、ほぼ定時に帰宅します。家庭の事情などで仕事に行けない時は、お休みすることも可能です。仕事も大切ですが、一般的には家族を大切にする文化が基本です。

また、毎日会っている人同志でも挨拶が濃厚です。日本人の挨拶はお辞儀をする程度ですが、ウズベキスタンでは右手を胸にあてて軽くお辞儀をします。女性同志では、ハグをしながら、両頬にキスを2~3回します。男性同志では、右手で握手をしながら、ハグをしたり、親友同志ではおでこを付け合わせて挨拶するのが一般的です。

仕事も大切ですが、家族や兄弟、姉妹や親戚などでイベント事や手伝わなければいけない状況になると職場からも大抵許可がおります。仕事も大切ですが、国全体で家族を一番大切にしようという文化が保たれているのです。

+++++

ウズベキスタンでの生活で慣れるのに時間がかかった苦労?ともいえ、楽しみともいえるのは、人々との関わりが濃厚であることです。日本人である私は、たまには一人の時間が欲しいなと思うことがしばしばです。でも、ウズベキスタンの人々にとっては一人の時間はほぼ必要ないでしょう。常に家族と一緒にいる生活、親戚やその他の人々を敬い、大切にします。

ウズベキスタンは現在、昔の日本の高度経済成長期のように急速に発展しています。ウズベキスタンの発展がますます楽しみな反面、家族や知人を大切にする気持ちはいつまでも忘れないでいて欲しいと思います。

看護師のスキルはさまざまな人生へと導いてくれます。

人生どこでどんな出会いがあってどうなるかは本当にわからないものですね。

一つ言えることは、自分自身が興味のあることに突き進んで努力していれば、その先にはきっと自分にふさわしい人との出会いがあり、道が開けていくものだと私は信じています。国際協力を目指していた人生はいったん中断してしまいましたが、現在は大切な家族に恵まれ、ガイドの仕事をしながら、家族や親戚、周辺の人々の健康管理に関わっています。

それもこれも、看護師の免許やスキルがあったからだなあ、と感じる日々。興味や気になる道がある時は、迷わずに直観で進んでみてはいかがでしょうか?  

必ず、あなたに向いている職場や人生があるはずです。